玉川温泉の発見者は、狩猟で生計を立てるマタギや大噴(おおぶき)で硫黄の開発作業にあたっていた鉱山夫だったといわれています。
彼らは、鹿が温泉につかって傷を癒している様子を見て、自分たちも温泉を利用したのだそうです。
そのため、玉川温泉は当初鹿湯と呼ばれていました。
ただし、その当時は温泉地としてのネームバリューはほとんどなく、反対に玉川に大量の強酸性泉を流し込み、下流の農地をだめにする悪い風評の方がクローズアップされていました。
玉川温泉を現在の有名な温泉場に昇華させたのは、秋田県鹿角市湯瀬生まれの関直右衛門氏。
彼は、木材の流送を家業とする関家四代目直右衛門の次男として生を受け、当初は鶴蔵と名づけられましたが、大正六年の先代没後に襲名して直右衛門と名を改めました。
彼が幼少のころ、関家の家業は思わしくなく、河川の洪水でしばしば木材を流失したり、度重なる火事に見舞われたりした挙句、鶴松が七歳の時には全財産を処分しなければならない窮地まで追い詰められたそうです。
ただし、幸いなことに湯治宿でもあった母屋だけは遠い親戚に確保してもらうことができました。
父親が債権者に頭を下げる姿を見て、鶴蔵少年は「将来必ず関家を再興してやる」と心に誓ったそうです。
さて、その後、家業の造林業で成功をおさめた直右衛門はうわさに聞く玉川温泉に関心を持つようになりました。
彼は皮膚病を病み、草津温泉へ湯治に出かけましたが効果が出なかったそうです。
ところが、玉川で10日ほどお湯につかったら直ってしまったとの由。
玉川温泉の効き目を自分の身体で実際に試した彼は、八幡平の観光の将来に夢を託して、1932年に湯瀬ホテルの建設と玉川温泉の権利買収を行いました。
交通手段がなかった当時は、深い山間にあるため客もまばらでしたが、直右衛門氏の不断の努力により、現在では玉川温泉までの国道が開通し、定期バスが運行するまでになっています。
また、冬の利用者のために湯瀬ホテルでは送迎バスも出しています。
この事業家直右衛門氏は、八幡平宮川地区の村長も勤められた公人でもありました。
翁は、昭和18年に天寿を全うしますが、彼の葬儀には遠方からもたくさんの弔問客が訪れ、墓地まで長い行列ができたと父親から聞いております。